第四章 地下の声

事件は、誠一が思っていたより早く来た。

 夜の丸の内、オフィス街の地下通路。仕事帰りのサラリーマンたちが行き交う中、誠一には見えていた。地面の亀裂から伸びる、黒い手を。

 誰も気づいていない。スマホを見ながら歩いている。イヤホンをしている。目の前を黒い霧のようなものがすり抜けても、人々は何も感じない。

 だが一人、立ち止まった男がいた。

 四十代後半くらいの、スーツ姿の男だった。端正な顔立ちで、白髪が混じっている。その男は地面の亀裂を見つめ、そして誠一を見た。

「あなたにも見えるのか」と男は言った。

「……見える」と誠一は答えた。

「守護者か」男は低く笑った。「こんな男が選ばれたのか。情けない」

 誠一は男の手を見た。右手に、黒い羽が握られていた。複数の、灰色の羽が。

「きみが、羽を奪った者か」

「集めているんだ」と男は言った。「集め終えたら、俺の息子が戻ってくる。三年前に死んだ俺の息子が」

 誠一は動けなかった。

「交通事故だった。十九歳だった。大学に合格して、これから何でもできる年齢だった。それが、ある夜、突然消えた」男の声は静かだった。感情を押し殺した声だった。「地の底のものが言った。封印を解けば、過去に干渉できると。息子を死なせた夜に戻れると。俺は、何を失ってもいいと思った」

 誠一には、その気持ちがわかった。

 わかってしまった。

「でも」と誠一は言った。「封印が解けたら、この都市は終わる。息子さんが生きていた都市も、なくなる」

「わかっている」と男は言った。「でも、止められない。もう止まれない」

 黒い羽が光った。地面が揺れた。地下通路の壁にひびが入り、そこから濃い闇が滲み出してくる。人々が悲鳴を上げ、走り出す。

 誠一の右手首が熱くなった。

 羽の痣が、光った。